Google と Facebook の限界

電車でかわいい女の子が隣にいるときの僕のインターフェースは最先端なのですが、最近ウェブではコンテンツの質について取りざたされていますね。
CGM に限らずウェブに公開されているコンテンツは基本的にマンパワーによって生成されています。つまり、コンテンツの増加量はインターネット利用者数の増加に対して指数関数的であると言えます。これがいったい何を示すのか、今日はそこんとこについて考えてみたいと思います。

SEO の功罪

Google 検索を代表とする既存のフィルタは、リンクジュースという機械的な相関の重み付けを基準としています。「何が重要であるか」を評価するのではなく、前提として重要である要素を決めています。これは「気温が上がった原因が二酸化炭素にあるかどうかを評価せず、二酸化炭素が増える事で気温が上がると仮定した」という論理と同意です。
つまり、利用者ではなく提供者がその価値をコントロール出来るわけですね。ここにもメールと同じく”仕組み的な脆弱性”が存在しています。
この脆弱性を利用したものがいわゆる SEO というやつです。

情報の価値は、本質的に言えば受け手が決めるものです。提供者が価値を決められるわけではありません。提供者はあくまでも受け手を選別しているに過ぎないのです。ここに pv というエッセンスが加わることで SEO のモチベーションとなっています。

多くの人の目に止まることは確かに大事です。しかしそれは目と対象のバランスが維持されている前提によって保証されます。言い換えれば「人間が一度に評価出来る母集団の数には限度がある」という事です。
立地の希少価値とも言えるこの前提が SEO によって曖昧になってしまっている現状は、検索エンジンの持つ説得力に対しても言える事です。

Google の限界

提供者のほぼ全てが SEO を意識する今のウェブでは”多くの人の目に止まる”事は優位性を保つアプローチではなく、最低限の施策として考えられている事からも判るとおり、既存の検索エンジンから見たコンテンツの数は既に飽和状態にあります。
今はまだ既存の検索エンジンを意識したコンテンツ、技術的にウェブに取り入れる事が可能なコンテンツに限られているため既存の検索エンジンで情報収集する事が可能ですが、10年、20年先スマートフォンが進化してウェアラブルコンピュータが今のパソコンの位置に置き換わったとしたら、今の検索エンジンは何の役にも立たないでしょう。

なぜならば、生活を軸とした価値の決定プロセスの因子となる要素はリンクジュースのような普遍的なものではなく、文化や地域性、年代、性別など、無数に存在するパーソナリティに起因しているためです。つまり、利用者のパーソナリティという検索エンジンから見て事前に決定出来ない基準によって情報の価値が決定しています。
既存の検索エンジンにはこういった要素を評価する価値決定プロセスが備わっていません。ここが Google の限界です。

Facebook の限界

Facebook は”エッジランク”という人間関係を軸とした価値決定プロセスによってコンテンツの重み付けを基準としています。
利用者の行動から推論するレコメンドエンジンの評価基準として定義されているこのエッジランクが、既存の検索エンジンと未来の検索エンジンの丁度中間に位置する検索エンジンであると僕は考えています。

ただし、あくまでも行動を基準としているため、価値が普遍的であるという点で既存の検索エンジンと本質的に同じです。価値のコントローラが提供者から利用者に移動したに過ぎません。
さらに、人間の選択から価値を類推するレコメンドエンジンの限界は価値の水平思考が出来ない点にあります。個人間で交換する価値自体が個人にある価値に依存しているため、行動を基準としたクラスタリングの外と価値を交換することはありません。
ここが Facebook の提供するエッジランクの限界です。

世界の限界

ウェブにおける情報の大多数は文字です。つまり、同じ言語を理解するクラスタに属してさえいれば価値の交換が可能です。ある程度は。
しかし、仮に世界中の言語が英語に統一され、全ての人間が等しく言語によって価値を交換できたとしても、文章を構成する単語や言い回しの重み付けには文化や地域性といった要素が絡みます。つまり、言語が統一されたとしても意識が統一されなければフラットな価値の交換は不可能です。
これが端的に言えば世界の限界であり、世界の仕組みでもあります。

小説や漫画の世界でテーマが統一出来ているのは言語が統一されているからではありません。文化や地域性といった地理的な価値観の違いが無いためです。
では、この価値観の違いへ機械的なアプローチはとれないのでしょうか。
音相理論という言語学上の理論があります。端的に言えば「あ」や「そ」といったそれぞれの音が持つ印象によって単語の特徴を評価する理論です。
日本という大きな地理的要素によって限定されていますが、方言や言い回しといった地域的特性に依存していないため文章をそのまま解析するよりも一段低いレイヤーで評価する事が可能です。

この音相理論のように、音に対して人間が抱く印象という、文章とは全く別のアプローチによって展開される理論は情報に対する感情的な価値を共有する事が可能ですが、包括的な価値の共有は出来ません。なぜならば、包括的な価値の共有には文化や地域性が含まれるからです。
つまり、情報世界がどれだけ発達しようとも、文化や地域といった物理的要因なくして情報の価値を計ることは不可能であると言えます。
自分が属するクラスタでのみ通用する言い回しや趣味の世界にだけ通用する価値観がある以上、この世界の限界は超える必要性のあるものだとは、僕は思いません。

未来の検索エンジン

さて、Google のアプローチも、Facebook のアプローチも本質的には普遍的な価値を共有し、フィルタリングしていると書きましたが、フィルタリングが検索の本質なのでしょうか。情報はこれからも濁流のごとく押し寄せてきます。デマンドメディアのように Google の持つ仕組み的な脆弱性を利用したマーケティングは既存の検索エンジン世界の崩壊を早める要因となると僕は考えています。
このように、今後も情報の増加が確実である世界においてフィルタリングというアプローチで立ち向かえるのだろうかという点に対して、僕は疑問を覚えます。
フィルタリングは情報の母集団の中から条件に合致した情報を見つける手法であるため、マーケティングの視点から見ればフィルタされない事が第一歩となります。どれだけフィルタの性能が向上したとしても、情報提供者が抱く「フィルタされたくない」という意図がノイズとして含まれているわけです。

そう考えると、フィルタリングではなくもっと別のアプローチが必要なんじゃないかと僕は思います。
この点に関して、どこかの企業や個人が独善的にルールを設けるのではなく、みんなで考える事が実は一番重要なんじゃないかと考え今回の記事を書きました。
この記事を読んで頂いた皆さんには是非とも考えて頂きたい、未来の検索エンジンって、なんですか?