無償の愛など無い

こんにちは、ハヤシです。皆さん、愛し合ってますか?そうですかそうですか。
僕に至りましてはワイフと健全な夫婦生活を営んでいる次第であります。
さて、ちまたでよく言う「無償の愛」今日はこちらについてお話ししたいと思います。

みなさん、無償の愛って存在すると思いますか?

存在するとするならばどのようなものが無償の愛だと思いますか?
「母親が子供に注ぐ愛情は無償だ」などと伺うことがままありますが、これは無償じゃありません。母親が「自分の子供は他の子供よりも幸せになって欲しい」と思う欲求を動機とした愛情です。そもそも無償とは

受益者に代価を求めないという意味

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%84%9F

です。
ここで言う受益者とは、母親の愛情を享受する子供です。

愛情を注ぐという行為は、愛情を注いだ相手が「その他の対象よりも良い状態でいる事」を対象から対価として受け取っています。
母親と子供ならば「母親は子供が他の子供より良い状態でいる事」を対価として受け取りたいがために愛情を注いでいるわけです。
そのような対価を求めなければ無償の愛情が存在すると言えますが、それではそもそも愛情を注ぐ動機が無くなります。
つまり、愛とはそもそも対価を受け取ることを動機とした行為であり、対価を受け取らない無償の状態での愛は成立しないと言えます。

では無償の愛は本当に成立しないのでしょうか。

母親が子供に注ぐ愛情を、自分を含めた生きとし生けるもの全てに平等に注いだらどうでしょう。対象間に相対的な差は生まれないため、愛情の動機である「その他の対象よりも良い状態でいる事」が成立しなくなります。これならば無償の愛と言えるのでしょうか。

このような感情が成立する世界を仮定してみましょう。

野良犬がお腹を空かせて今にも餓死しそうな状態です。あばらなんかもう一見すると楽器です。
残念な事に僕は食べ物を持っていません。隣を見ると血色の良い僕の大切なワイフがいます。

僕にとってはどちらにも同じ愛情を同じだけ注いでいるわけですから、どちらの死もどちらの生も本質的な差はありません。ならば執る手段は一つ。ワイフから肉を少々頂戴して犬に与えます。そうすることでどちらの死も免れるため、まんべんなく愛情を注いでいる僕からすれば満足です。
僕の肉をあげればいいだろうって?別にそれでも構わないんです。目の前を通りかかった知らないおっさんのお尻だっていいんです。
僕にとっては生きとし生けるもの全ての価値は平等なわけですから。


どうでしょう。これって無償の愛と言えますか?

お腹を空かせた犬がいたからワイフから肉を切り取って犬に与える、現実世界だったら完全にアウトですね。なぜなら、それが悪い事だと法律で定められているからです。
これは生き物全ての価値が平等な世界においては善悪の区別が無いことを示唆しており、対象間で相対的な価値の差が無い世界では全ての生き物が無価値である事も示唆しています。
端的に言えば、これが仏教世界で言うところの悟りであり、愛情とは対象間に相対的な価値の差が無ければ存在し得ない概念だと言える根拠です。

相対的な価値の差は「自分にとって大事な相手、またそうではない相手」という自己の欲求を基準としており、そのような基準に基づいた差別行為それこそが愛情であると、僕は思うわけです。
だからこそ言いたい、無償の愛などありません。しかしそれを卑下することもありません。無償の愛なんて最初から存在しないのですから。