知ることと伝えることの責任

不安定な天気が続く中、ご高覧の皆様におかれましてはご自愛いただけておりますでしょうか。ハーフパンツ以外で外に出る気になれないハヤシでございます。
ここのところ、世界規模の株安や円高、それに記録的な豪雨に台風と、のべつまくなしに日本は混乱の渦に巻き込まれております。被災されている方はおろか、僕らでさえ明日もしれない不安の中日々を過ごしています。そしてこの大きな不安を拭うかの如く、政府の方針や社会の在り方に不満を漏らすことで毎日をなんとかやり過ごしています。

震災を通じて気づいた事実

僕は今年頭から数人の友人たちと毎週集まり「これからのビジネスの在り方」について議論を重ね、個人事業主の立場として、協業とは何であるかを模索しておりました。
幾つかかたちに出来る手前まで差し掛かったところで、東北に地震が起きてかたちになりかけたもののほとんどが瓦解しました。きっとみなさんの中にも同じ経験をなさった方がいらっしゃるかと存じます。
戦々恐々とした中1ヶ月が経過した4月中旬、近況報告として震災以降はじめてミーティングを再開し、僕らの置かれている状況を再確認し、想像よりもはるかにひどい現実に愕然としました。その時にはじめて、かたちになりかけたものが地震の影響でストップしているのではなく、瓦解してしまったのだと痛感したことを今でも色濃く記憶しています。

瓦解していなかったとしても、震災の影響が仕事に大きな影響を来していたためそれどころではなく、まずは各自体勢を立てなおし、情勢を注視しながら今後の方針を検討すべきとの決を得ました。それと同時に日本の置かれている状況を知れば知る程に強く襲ってくる不安感を払拭するかの如く「今僕らに何が出来るだろうか」という問いかけが生まれ始めました。
それから数回の会合を経、状況報告と今後の方策について議論を交わす中「今僕らに何が出来るのだろうか」という問いかけは回を重ねるごとに強く、より明確な疑問となって現れてきました。

そして5月頭ころの会合で気づきました。
与えられた情報の中だけで何ができるかを考えても答えなど出てこない事に。
結論に至る前、必ず立ちはだかるのは「でも実際どうなってるのかわからないよね」という大きな壁です。震災を経験していなければ、津波を経験していなければ実感できない気持ちを知ることが出来ないため、どのようなアプローチも実行に移せるだけの根拠を持てず、再案を繰り返す中でその状況をまずひっくり返すことが先決であると気づきました。
その結果として生まれたのがリボーーーンです。

リボーーーンは被災地の状況をより明確に知るための場であり、同時に伝えるための場でもあります。
被災地のことを知らなければ答えが得られないならば、まずは被災地の状況を知り、その中で何ができるかを模索するという、いわゆる目的が明確な復興支援活動とは毛色の違う、目的ではなく手段を提供する復興支援活動です。
しかし、ここに大きな誤算がありました。それは知ることに対する責任感の違いです。

知ることにおける責任

ことインターネットにおいて情報とはすべての人に公平に、且つ無償で与えられるべきという考えが根底にあります。詳しくはハッカー宣言に譲りますが、僕もその考えに同意しています。知ることに対価を支払うべきではありません。
この対価に責任を含めて考えていらっしゃる方が相当数いますが、これは間違いです。情報網は知った情報を自己責任の名に置いて適切な処置を施す事で成立しています。

つまり、何かを知るということは、同時に知った事に対して責任を負うことでもあります。
例えば捨て猫を見かけたとします。まだ目も開いていないような小さな小さな子猫が自分をみつめて「にゃあ」と鳴いた。これにより捨て猫の存在を知り、知ったが故に「ここでほおっておいたら死んでしまう」という可能性に気づきます。
ここで、その可能性を知りながら何の手段も講じない事は知ったことに対する責任の放棄です。実際、僕が目にしてきた事の多くはこれと同じ責任の放棄です。
あるソーシャルストリームでは、真偽の確認がとれていない情報を拡散し、また人のアプローチを否定するだけで対案を述べず自己満足に浸る。これらの本質は捨て猫の存在を知りつつ、無視することとなんら変わりありません。

これはインターネットという情報空間において、自己の存在意義を否定するに等しい愚かな行為であると僕は考えています。知ることへの責任とは、不確かな情報を拡散することにはありません。また、方法が正しくないと断ずることにもありません。不確かな情報を確かなものへと昇華すること、正しくない方法を提議した人に正しい方法を提案するのが知ることに対する責任です。
これが成されなければ、いつまで経ってもインターネットはおもちゃに過ぎず、リアルな世界に感じている人間の性悪に対するペルソナに過ぎません。

マスメディアが発達した今の世界において、知ることの責任は出来る限り感じられないよう希釈されており、これのことをエンターテイメントと言います。そして、希釈せず、それ以外の手も一切加えずプリミティブな状態で提供するのがジャーナリズムです。
僕らはみんな、エンターテイメントとジャーナリズムに慣れ親しみすぎるあまり、全ての情報がエンターテイメントかジャーナリズムのどちらかであると盲信してしまっています。
これは伝える側の責任の名において再考すべき事実です。

伝えることにおける責任

知ることへの責任の別の側面は伝えることへの責任です。知った情報を人に伝えなければコミュニケーションは成立せず、また社会も成立しません。つまり、僕らの生きる世界は知ることと伝えることにより形作られていると言えます。
それ故、知ることだけに責任を感じていれば良いわけではなく、それを伝えることに対しても責任を負わなければなりません。
昨今はインフラ環境の成熟に伴い、インターネットもマルチメディア化してきています。音声はおろか、映像までが個人レベルで配信できる世の中になりました。これに伴い、個人や小規模企業レベルでインターネット上にメディアを構築し、情報を配信しており、これのことをソーシャルメディアと言います。しかし残念ながら、今あるソーシャルメディアのいずれも、伝えることの責任を一切放棄しています。つまり、伝える行為そのものをエンターテイメントとして楽しんでいるに過ぎません。
エンターテイメントとして伝えられる情報はエンターテイメント以外の情報になることありません。何故ならば知ることに責任を追わなければならない情報が含まれていないからです。
ソーシャルメディアもマスメディアと変わらないと憤慨している姿をよく見かけますが、それはこういうことです。

真のソーシャルメディア

本質的にメディアとは情報運用方法の一つに過ぎません。ソーシャルメディアはソーシャルに特化しているメディアであるに過ぎず、何か特別な新しい世界の入口を指しているわけではありません。
ソーシャルに特化するメディアだからといって真実の扉がみなさんの近くに寄るわけではなく、マスメディアとソーシャルメディアの違いは、単に粒度の違いでしかないのです。
そういった意味での距離感であればソーシャルメディアはマスメディアよりもぐっと近い位置にありますが、それは文化や地域性といったものさしでしか測ることの出来ない距離です。

つまり、ソーシャルメディアもマスメディアも本質は同じです。そこで伝える情報と、伝え方に違いを求めなければソーシャルメディアはマスメディアの劣化コピーに過ぎず、結果としてインターネットもエンターテイメントの塊にしかなりません。ただし、インターネットにおけるソーシャルメディアがマスメディアと一線を画す要素の一つが対話性です。
テレビはデジタル放送になり双方向性が生まれたと言いますが、これは対話性とは別物です。デジタル放送の双方向性はコミュニケーションではなく、バイアスでしかありません。つまり視聴率の延長線上にある要素です。

僕はソーシャルメディアが持つこの対話性こそが知ることと伝えることにおける責任を果たすために重要な要素の一つであると考えています。何故ならば、対話が情報に対して果たせる責任の一つであると考えているからです。
つまり、知った情報から対話を通して新たな知識や知見を生み出す事がソーシャルメディアを通して果たすことの責任の一つであり、リボーーーンがみなさんに提供するのはその対話に利用できる場です。
次回のリボーーーンは10月22日土曜日、時間はまだ確定していませんがお昼から夕方の間に始める予定です。場所は首都圏、手探り状態で始めた前回を教訓に生かし、より良い方法を模索している最中でもあります。
みなさんの中で、リボーーーンの活動に参加したい方はぜひinfo@rebooon.comまでご連絡下さい。また、イベントの内容に興味を持たれた方はぜひイベントにご参加下さい。そこで何を得るか、そして何を与えられるかは僕の口からはお伝えできませんが、被災地の状況を知ることも復興支援の一つです。現実に起きている事を知り、それを伝える。これはつまりみなさん一人一人がソーシャルメディアとして活動出来る機会でもあります。