インターネットはテレビを駆逐していない

ここのところ台風の影響もあり日々の寒暖差が激しい中、みなさまいかがお過ごしでしょうか。せっかくのオクトーバーフェストもこれだけ涼しいと中々足を運ぶ気にはなれないですね。やはりそのものを楽しむには環境までをも含めなければならないと、活動的なアクティビティ程強く感じるハヤシでございます。

さて、アナログ放送がその長い幕を閉じました。公共の設備を利用した民間のサービスで言えば、電話やラジオに継ぐ歴史を持ったテレビですが、みなさまにおかれましては普段どのような番組を見ていらっしゃいますか?
僕はといえばもっぱらCMです。テレビ番組の間に放送されるCMくらいしか楽しめない程、テレビはつまらなくなりました。元来受動的に楽しむことが苦手なタチではございますが、昨今のテレビはそのような個人の性質など関係ないほどに面白くないですね。

なぜここまで面白くなくなってしまったのでしょうか。これには2つの理由があると、僕は考えています。

表現の均質化

戦後からこれまで、日本は世界の通例では考えられないほどの勢いで復興し、発展してきました。この一番の原動力となっているのは平均化です。これは、10人いる中に1人だけ高い能力を持った人がいるよりも、10人が同じ能力を持っていたほうが運用コストが低くなり、また想定外の事例が起こる可能性も低くなるという論理に基づいています。軍事戦略などで考慮されている要素ですね。
個性を高め、取り組みをクリエイティブなものにするよりも、仕様に対する精度を高めることでコストパフォーマンスを上げることで、全てが失われてしまった戦後から驚くべき速度で復興を成し遂げ、また驚くべき力強さで先進的な国へと発展することをぼくらの国は選択しました。

僕はこれを権威のない全体主義と捉えています。権威の代替となるものはモラルであったり、総体の利益であったりします。政治的な焦点をもっと深いところまで掘り下げればまた違った見方があるのでしょうが、僕自身政治に対してそこまで深い造詣を持っていないためここでは割愛します。

この全体主義的価値観によって評価される要素は事故率の低さであるがゆえに、真に革新的な挑戦も無ければ、前衛的な芸術が生まれることもありませんでした。つまり、文化を産まないことで個々の主体性の成長を阻害したわけです。
こうすることで全ての人の表現力は均質化され、優れた芸術が評価されることも、先駆的な取り組みが行われることもなくなりました。

価値観の画一化

表現が均質化されることで日本という社会から生み出される日本人という製品の仕様に対する精度が高まりました。これは同時に、日本という国のナショナリズムが失われる事でもあります。なぜならば、文化を産まない事とナショナリズムで統一すべき思想が無い事は同意だからです。

結果、ナショナリズムが失われた代替えとして倫理や道徳といった主体性のない価値観が重要視されるようになりました。”誰にその価値観を押し付けても自身への評価が下がることの無い倫理や道徳であれば、文化や表現力に乏しい日本人でも個々の考えとして表明できる”つまり、自分が明確に正しいと言える立場からならば、乏しいアイデンティティでも十分に戦える事を動機としたコミュニケーションが生まれました。
正義感に担保された発信であるが故に共感を強要するこのコミュニケーション手法により、個々の価値観は画一的なものに置き換えられ、結果としてコミュニケーションからも何も生まれなくなりました。

また、総体の価値観が正義感で担保されることは逆から見れば個人の価値観そのものの否定です。つまり、自分以外に悲しむ人がいるならば、それはそれだけで悪であると断定されてしまう事を指します。しかも、個人の価値観の否定は総体の正義感によって肯定されているため、総体を代弁して個人の価値観を否定することが許されています。

僕はここに、日本のエンターテイメントの死を感じました。
本当に優れた芸術を評価出来る人間が少ない事からも解る通り、エンターテイメントの価値は多数決で決まりません。しかしながらいまの日本ではエンターテイメントの価値は評価する声の大きさで決まります。だから、面白くないんです。

嗜好の細分化

総体としてのエンターテイメントは死んでしまった我が国ですが、それが全てではありません。総体に否定された価値観全てが消えたわけでもありません。
10年前までは声をひそめることがマナーであったマイノリティが、今や嗜好の細分化という性質を勝ち取りました。「あなたに認めてもらうためにやるのではない」という前提を、マイノリティであるという事実で担保するこのアプローチにより、これまで否定されてきたエンターテイメントが生き残る道を見つけたのです。そしてこのアプローチは、インターネットの中で生きています。

よく「インターネットがテレビを駆逐する」と聞きますが、こと日本においてそれは間違いであると僕は考えています。テレビを駆逐したのはぼくらであり、駆逐されたエンターテイメントを活かす場所としてインターネットが選ばれたのだと考えています。

昨今ではFacebookがインターネット界隈を良くも悪くも賑わせていますが、意見の大多数が「流行るかどうか」を基点として論じています。ここに、60年くらいの間に染み付いた総体としての評価行動が見え隠れしているのですが、もう一度書いておきます。

本当に優れた芸術を評価できる人は少ないんです。あなたにしか評価できない事象があるんです。だからこそ、流行るかどうかで判断する必然性は無いんです。そんな目線で物事を評価していると、インターネットもテレビの二の舞になってしまいます。

「テレビはつまらないけど、インターネットは面白い。」ネットジャンキーの皆様におかれましては、この事実が意味するところを改めて考えていただきたいと、面白ドリブンで活動している僕は強く願わずにはいられません。
そして、マスメディアのエンターテイメントが面白くないと感じたら、ソーシャルメディアのエンターテイメントをつくりましょう。

それと、省エネを考えるならばエアコンの温度を上げるよりもテレビを消した方が効果的です。