原発事故をとおして僕らが学ぶべきこと

もうすぐ震災から半年が経ちますが、みなさまにおかれましては息災でございましょうか。僕はといえば最近筋トレをはじめ、食生活にも気を使い若いあの頃のメリハリボディを取り戻す事に夢中でございます。とはいえ、このような事をはじめてもすぐに効果が表れるわけではなく、習慣化して意識の外にでてから肉体へのフィードバックが表れるようです。何事もまずははじめてみて、それが正しい行為かどうかは結果で測るものなのだなあと感じている次第でございます。

リボーーーンが取り扱うテーマ

僕はリボーーーンという復興支援活動に参加しています。活動内容についてはリボーーーンウェブサイトをご覧いただくとして、次回イベントで取り上げるテーマについて、今リボーーーン内部でも激論を交わしている議題があります。
それは”原発事故”。日本の復興において最も重要で、最もデリケートなテーマです。
デリケートすぎるが故にテーマとして取り上げる事のリスクについて大きな議論を呼んでいます。といっても提案したのは僕自身であるため、今回の記事では「なぜ、今復興支援のイベントで原発事故に焦点を絞ろうと提案したのか」を紐解いてみます。

問題の本質

原発事故について意見を求めると大体「難しいからわからない」と意見の表明を拒否されます。確かに高度な物理学や医学、国内のエネルギー事情、更には政治における利権的な関係性についてまで、実に幅広い知識を必要とする問題です。
福島では実際に被害を受けている人がたくさんいますし、今でも避難を続けている人もいます。そのような状況に対して「うっかり適当な事を言って間違っていたら大変」だと考えて意見表明に躊躇する気持ちは十分にわかります。わかりますがそれは間違いです。
そもそもこの問題に対して現段階で正解を述べられる人などいないでしょう。だって日本人の誰も経験したことのない状況なのですから。世界的にみても稀な事故です。
実際海外では少ないリスクでユースケースを検証できる良い機会だと考え、国をあげて様々な議論が交わされ、日本国内に世界中の様々な研究機関が調査に訪れています。つまり、世界中の人達がこの問題に対して「わからないことだから調べて意見を出し合わないといけないよね」と考えているのです。
この点を理解せず、正解が言えないからといって口を噤むのは選挙に投票しない事と同意です。これこそが原発事故の本質的な問題だと僕は考えています。

正解への依存性

原発事故の本質的な問題は「正解を言えないから口を噤む」という点にあると書きましたが、これは原発事故だけに限定した問題ではありません。僕を含めた全ての日本人が抱える本質的な問題です。バブル崩壊以降、絶対的に正しいとされてきた事の多くが人を死に追いやるくらいに高いリスクを抱えている事が明確になりました。
例えば不動産、例えば為替、例えば政治。枚挙に暇がありませんが、ここで日本人が学習したのはリスクの存在そのものではなく、リスクをかわす技術です。
つまり、リスクのあるものには手を出さない、手を出して欲しいものにはリスクを感じさせないというアプローチです。これらのアプローチにストレスを感じさせないよう、僕らはニヒルに、また退廃的に物事を捉えることで矛盾から目を逸らしました。

僕らは正解だと感じられる物事に依存し、自己の判断をおろそかにしてきました。それ故学ぶこともせず、また正解が感じられない行為にはしる人間を哂ってきたのです。
これがどのような結末を引き起こすかも考えずに、誰かが出してくる正解というぬるま湯に浸って刹那的な毎日を過ごしてきたのです。

ブラッシュアップと淘汰圧

生物の進化は絶え間ないストレスにさらされなければ起こりえません。前時代の弱者は新時代の覇者に一番近いのです。
恐竜が闊歩する時代、最も弱い立場にいた哺乳類は今や最も発展した生き物だと言えるでしょう。アメリカとの戦争に負けた日本はたった数十年で世界でも有数の先進国になりました。
これらの事から解るのは、現状が与えるストレスを改善するためのブラッシュアップが必要だということです。どうしたら今よりも良くなるのか、という思想の中に与えられた正解を選ぶ余地などありません。シマウマの足が早くなったり、体に縞がでてきたのは「そうすればライオンに食べられなくなる」という正解を選んだからではなく、足が早いシマウマが生き残り、体に縞のあるシマウマが生き残ってきた結果です。これまでにきっと、体の大きなシマウマや、ツノの生えたシマウマも生まれてきたのでしょうが、それらのシマウマは残念ながら生き延びてこれなかっただけなのです。

原発事故をとおして考えてほしいこと

生物の進化を僕らの社会にあてはめると、正解かどうかに頓着する事の無意味さが理解出来ると思います。僕らの社会に、今の日本に一番必要なのは「原発事故にどう立ち向かったら良いのか」ではなく「原発事故をとおして僕ら一人一人が自分の意見を持ち、他者と議論する」ことです。そのプロセスを経て正解が見つかるかどうかは誰にも分かりません。しかし、今の段階でどこにも正解なんて無いんです。
やれ政治が関わるデリケートな問題だとか、被災者が敏感になっているだとか、そんなのは前提条件でしかありません。意見表明しない理由にはなりませんし、そもそも政治や被災者に焦点を絞ってより良い未来を模索するために意見表明するんじゃないでしょうか。

だから僕にとって「原発が是か非か」という点は余り重要ではありません。僕ら一人一人が自分自身で考え、そして責任をもって言える意見をもつことにこそ価値があると感じています。だからこそ次回リボーーーンでは原発をメインテーマに、様々な立場の人達の意見を聞き、質疑応答の時間を設け、自分の意見をもつための準備をしてもらいたいと考えています。
僕自身、今原発に対する意見を求められても答えを返せません。せいぜい「まずはリスクマネジメントを見直すべき」という程度です。具体性なんて一つもありません。
原発をテーマにした会をとおして自分自身の意見を責任持って発言出来る人間になりたいからこそ、原発をテーマにしてはどうかと提案しました。

意見を求めています

先週の日曜、リボーーーンのミーティングで上記のように「原発をメインテーマに据えてみたらどうか」と提案した結果、リボーーーンのメンバーでも賛否両論が起こりました。僕らが今この問題を取り上げるリスクと、日本に蔓延している”誰かが正解を差し伸べていない物事に対するアンタッチャブル感”をきらい、さらには「それは復興支援なのか」というそもそもの疑問から、リボーーーンのメンバーだけで結論を出すべきではないとFacebookのクエスチョン機能を使ってみなさんの意見を伺っています。
今でもクエスチョンは継続していますし、Facebookを利用していない人はこの記事にコメントしていただいても結構ですので、是非みなさんがどう考えておられるのか発言してみてください。
http://www.facebook.com/questions/214905138564371/

また、僕の考えを端的に表しているみんなで決めよう「原発」国民投票という取り組みがあります。
何が正しいかではなく、僕ら一人一人が責任を持って意見表明する事にこそ価値があるから、国民全員が当事者意識を持って原発の是非を投票しよう、という取り組みです。
もちろん、法的拘束力などありませんから、是非が決まったところで確実な変化が起こる保証はありません。しかし、国民投票出来る余地があるのは今の僕らが持っている数少ない希望の一つです。

テーマが原発でも、総理大臣でもなんでもいいんです。国民全員が同じ立場にたって自分の意見を持つ事が大事なんです。原発事故で国内はおろか世界からも批判されている状況はいつまでも続きません。遅かれ早かれ結論を求められます。その時僕ら一人一人がきちんと「僕はこういう風に考えている」と言えなければ僕は日本は本当に終わると考えています。だからこそ、次回のリボーーーンでは原発をメインテーマに取り上げたいと考えています。

知ることと伝えることの責任

不安定な天気が続く中、ご高覧の皆様におかれましてはご自愛いただけておりますでしょうか。ハーフパンツ以外で外に出る気になれないハヤシでございます。
ここのところ、世界規模の株安や円高、それに記録的な豪雨に台風と、のべつまくなしに日本は混乱の渦に巻き込まれております。被災されている方はおろか、僕らでさえ明日もしれない不安の中日々を過ごしています。そしてこの大きな不安を拭うかの如く、政府の方針や社会の在り方に不満を漏らすことで毎日をなんとかやり過ごしています。

震災を通じて気づいた事実

僕は今年頭から数人の友人たちと毎週集まり「これからのビジネスの在り方」について議論を重ね、個人事業主の立場として、協業とは何であるかを模索しておりました。
幾つかかたちに出来る手前まで差し掛かったところで、東北に地震が起きてかたちになりかけたもののほとんどが瓦解しました。きっとみなさんの中にも同じ経験をなさった方がいらっしゃるかと存じます。
戦々恐々とした中1ヶ月が経過した4月中旬、近況報告として震災以降はじめてミーティングを再開し、僕らの置かれている状況を再確認し、想像よりもはるかにひどい現実に愕然としました。その時にはじめて、かたちになりかけたものが地震の影響でストップしているのではなく、瓦解してしまったのだと痛感したことを今でも色濃く記憶しています。

瓦解していなかったとしても、震災の影響が仕事に大きな影響を来していたためそれどころではなく、まずは各自体勢を立てなおし、情勢を注視しながら今後の方針を検討すべきとの決を得ました。それと同時に日本の置かれている状況を知れば知る程に強く襲ってくる不安感を払拭するかの如く「今僕らに何が出来るだろうか」という問いかけが生まれ始めました。
それから数回の会合を経、状況報告と今後の方策について議論を交わす中「今僕らに何が出来るのだろうか」という問いかけは回を重ねるごとに強く、より明確な疑問となって現れてきました。

そして5月頭ころの会合で気づきました。
与えられた情報の中だけで何ができるかを考えても答えなど出てこない事に。
結論に至る前、必ず立ちはだかるのは「でも実際どうなってるのかわからないよね」という大きな壁です。震災を経験していなければ、津波を経験していなければ実感できない気持ちを知ることが出来ないため、どのようなアプローチも実行に移せるだけの根拠を持てず、再案を繰り返す中でその状況をまずひっくり返すことが先決であると気づきました。
その結果として生まれたのがリボーーーンです。

リボーーーンは被災地の状況をより明確に知るための場であり、同時に伝えるための場でもあります。
被災地のことを知らなければ答えが得られないならば、まずは被災地の状況を知り、その中で何ができるかを模索するという、いわゆる目的が明確な復興支援活動とは毛色の違う、目的ではなく手段を提供する復興支援活動です。
しかし、ここに大きな誤算がありました。それは知ることに対する責任感の違いです。

知ることにおける責任

ことインターネットにおいて情報とはすべての人に公平に、且つ無償で与えられるべきという考えが根底にあります。詳しくはハッカー宣言に譲りますが、僕もその考えに同意しています。知ることに対価を支払うべきではありません。
この対価に責任を含めて考えていらっしゃる方が相当数いますが、これは間違いです。情報網は知った情報を自己責任の名に置いて適切な処置を施す事で成立しています。

つまり、何かを知るということは、同時に知った事に対して責任を負うことでもあります。
例えば捨て猫を見かけたとします。まだ目も開いていないような小さな小さな子猫が自分をみつめて「にゃあ」と鳴いた。これにより捨て猫の存在を知り、知ったが故に「ここでほおっておいたら死んでしまう」という可能性に気づきます。
ここで、その可能性を知りながら何の手段も講じない事は知ったことに対する責任の放棄です。実際、僕が目にしてきた事の多くはこれと同じ責任の放棄です。
あるソーシャルストリームでは、真偽の確認がとれていない情報を拡散し、また人のアプローチを否定するだけで対案を述べず自己満足に浸る。これらの本質は捨て猫の存在を知りつつ、無視することとなんら変わりありません。

これはインターネットという情報空間において、自己の存在意義を否定するに等しい愚かな行為であると僕は考えています。知ることへの責任とは、不確かな情報を拡散することにはありません。また、方法が正しくないと断ずることにもありません。不確かな情報を確かなものへと昇華すること、正しくない方法を提議した人に正しい方法を提案するのが知ることに対する責任です。
これが成されなければ、いつまで経ってもインターネットはおもちゃに過ぎず、リアルな世界に感じている人間の性悪に対するペルソナに過ぎません。

マスメディアが発達した今の世界において、知ることの責任は出来る限り感じられないよう希釈されており、これのことをエンターテイメントと言います。そして、希釈せず、それ以外の手も一切加えずプリミティブな状態で提供するのがジャーナリズムです。
僕らはみんな、エンターテイメントとジャーナリズムに慣れ親しみすぎるあまり、全ての情報がエンターテイメントかジャーナリズムのどちらかであると盲信してしまっています。
これは伝える側の責任の名において再考すべき事実です。

伝えることにおける責任

知ることへの責任の別の側面は伝えることへの責任です。知った情報を人に伝えなければコミュニケーションは成立せず、また社会も成立しません。つまり、僕らの生きる世界は知ることと伝えることにより形作られていると言えます。
それ故、知ることだけに責任を感じていれば良いわけではなく、それを伝えることに対しても責任を負わなければなりません。
昨今はインフラ環境の成熟に伴い、インターネットもマルチメディア化してきています。音声はおろか、映像までが個人レベルで配信できる世の中になりました。これに伴い、個人や小規模企業レベルでインターネット上にメディアを構築し、情報を配信しており、これのことをソーシャルメディアと言います。しかし残念ながら、今あるソーシャルメディアのいずれも、伝えることの責任を一切放棄しています。つまり、伝える行為そのものをエンターテイメントとして楽しんでいるに過ぎません。
エンターテイメントとして伝えられる情報はエンターテイメント以外の情報になることありません。何故ならば知ることに責任を追わなければならない情報が含まれていないからです。
ソーシャルメディアもマスメディアと変わらないと憤慨している姿をよく見かけますが、それはこういうことです。

真のソーシャルメディア

本質的にメディアとは情報運用方法の一つに過ぎません。ソーシャルメディアはソーシャルに特化しているメディアであるに過ぎず、何か特別な新しい世界の入口を指しているわけではありません。
ソーシャルに特化するメディアだからといって真実の扉がみなさんの近くに寄るわけではなく、マスメディアとソーシャルメディアの違いは、単に粒度の違いでしかないのです。
そういった意味での距離感であればソーシャルメディアはマスメディアよりもぐっと近い位置にありますが、それは文化や地域性といったものさしでしか測ることの出来ない距離です。

つまり、ソーシャルメディアもマスメディアも本質は同じです。そこで伝える情報と、伝え方に違いを求めなければソーシャルメディアはマスメディアの劣化コピーに過ぎず、結果としてインターネットもエンターテイメントの塊にしかなりません。ただし、インターネットにおけるソーシャルメディアがマスメディアと一線を画す要素の一つが対話性です。
テレビはデジタル放送になり双方向性が生まれたと言いますが、これは対話性とは別物です。デジタル放送の双方向性はコミュニケーションではなく、バイアスでしかありません。つまり視聴率の延長線上にある要素です。

僕はソーシャルメディアが持つこの対話性こそが知ることと伝えることにおける責任を果たすために重要な要素の一つであると考えています。何故ならば、対話が情報に対して果たせる責任の一つであると考えているからです。
つまり、知った情報から対話を通して新たな知識や知見を生み出す事がソーシャルメディアを通して果たすことの責任の一つであり、リボーーーンがみなさんに提供するのはその対話に利用できる場です。
次回のリボーーーンは10月22日土曜日、時間はまだ確定していませんがお昼から夕方の間に始める予定です。場所は首都圏、手探り状態で始めた前回を教訓に生かし、より良い方法を模索している最中でもあります。
みなさんの中で、リボーーーンの活動に参加したい方はぜひinfo@rebooon.comまでご連絡下さい。また、イベントの内容に興味を持たれた方はぜひイベントにご参加下さい。そこで何を得るか、そして何を与えられるかは僕の口からはお伝えできませんが、被災地の状況を知ることも復興支援の一つです。現実に起きている事を知り、それを伝える。これはつまりみなさん一人一人がソーシャルメディアとして活動出来る機会でもあります。

インターネットはテレビを駆逐していない

ここのところ台風の影響もあり日々の寒暖差が激しい中、みなさまいかがお過ごしでしょうか。せっかくのオクトーバーフェストもこれだけ涼しいと中々足を運ぶ気にはなれないですね。やはりそのものを楽しむには環境までをも含めなければならないと、活動的なアクティビティ程強く感じるハヤシでございます。

さて、アナログ放送がその長い幕を閉じました。公共の設備を利用した民間のサービスで言えば、電話やラジオに継ぐ歴史を持ったテレビですが、みなさまにおかれましては普段どのような番組を見ていらっしゃいますか?
僕はといえばもっぱらCMです。テレビ番組の間に放送されるCMくらいしか楽しめない程、テレビはつまらなくなりました。元来受動的に楽しむことが苦手なタチではございますが、昨今のテレビはそのような個人の性質など関係ないほどに面白くないですね。

なぜここまで面白くなくなってしまったのでしょうか。これには2つの理由があると、僕は考えています。

表現の均質化

戦後からこれまで、日本は世界の通例では考えられないほどの勢いで復興し、発展してきました。この一番の原動力となっているのは平均化です。これは、10人いる中に1人だけ高い能力を持った人がいるよりも、10人が同じ能力を持っていたほうが運用コストが低くなり、また想定外の事例が起こる可能性も低くなるという論理に基づいています。軍事戦略などで考慮されている要素ですね。
個性を高め、取り組みをクリエイティブなものにするよりも、仕様に対する精度を高めることでコストパフォーマンスを上げることで、全てが失われてしまった戦後から驚くべき速度で復興を成し遂げ、また驚くべき力強さで先進的な国へと発展することをぼくらの国は選択しました。

僕はこれを権威のない全体主義と捉えています。権威の代替となるものはモラルであったり、総体の利益であったりします。政治的な焦点をもっと深いところまで掘り下げればまた違った見方があるのでしょうが、僕自身政治に対してそこまで深い造詣を持っていないためここでは割愛します。

この全体主義的価値観によって評価される要素は事故率の低さであるがゆえに、真に革新的な挑戦も無ければ、前衛的な芸術が生まれることもありませんでした。つまり、文化を産まないことで個々の主体性の成長を阻害したわけです。
こうすることで全ての人の表現力は均質化され、優れた芸術が評価されることも、先駆的な取り組みが行われることもなくなりました。

価値観の画一化

表現が均質化されることで日本という社会から生み出される日本人という製品の仕様に対する精度が高まりました。これは同時に、日本という国のナショナリズムが失われる事でもあります。なぜならば、文化を産まない事とナショナリズムで統一すべき思想が無い事は同意だからです。

結果、ナショナリズムが失われた代替えとして倫理や道徳といった主体性のない価値観が重要視されるようになりました。”誰にその価値観を押し付けても自身への評価が下がることの無い倫理や道徳であれば、文化や表現力に乏しい日本人でも個々の考えとして表明できる”つまり、自分が明確に正しいと言える立場からならば、乏しいアイデンティティでも十分に戦える事を動機としたコミュニケーションが生まれました。
正義感に担保された発信であるが故に共感を強要するこのコミュニケーション手法により、個々の価値観は画一的なものに置き換えられ、結果としてコミュニケーションからも何も生まれなくなりました。

また、総体の価値観が正義感で担保されることは逆から見れば個人の価値観そのものの否定です。つまり、自分以外に悲しむ人がいるならば、それはそれだけで悪であると断定されてしまう事を指します。しかも、個人の価値観の否定は総体の正義感によって肯定されているため、総体を代弁して個人の価値観を否定することが許されています。

僕はここに、日本のエンターテイメントの死を感じました。
本当に優れた芸術を評価出来る人間が少ない事からも解る通り、エンターテイメントの価値は多数決で決まりません。しかしながらいまの日本ではエンターテイメントの価値は評価する声の大きさで決まります。だから、面白くないんです。

嗜好の細分化

総体としてのエンターテイメントは死んでしまった我が国ですが、それが全てではありません。総体に否定された価値観全てが消えたわけでもありません。
10年前までは声をひそめることがマナーであったマイノリティが、今や嗜好の細分化という性質を勝ち取りました。「あなたに認めてもらうためにやるのではない」という前提を、マイノリティであるという事実で担保するこのアプローチにより、これまで否定されてきたエンターテイメントが生き残る道を見つけたのです。そしてこのアプローチは、インターネットの中で生きています。

よく「インターネットがテレビを駆逐する」と聞きますが、こと日本においてそれは間違いであると僕は考えています。テレビを駆逐したのはぼくらであり、駆逐されたエンターテイメントを活かす場所としてインターネットが選ばれたのだと考えています。

昨今ではFacebookがインターネット界隈を良くも悪くも賑わせていますが、意見の大多数が「流行るかどうか」を基点として論じています。ここに、60年くらいの間に染み付いた総体としての評価行動が見え隠れしているのですが、もう一度書いておきます。

本当に優れた芸術を評価できる人は少ないんです。あなたにしか評価できない事象があるんです。だからこそ、流行るかどうかで判断する必然性は無いんです。そんな目線で物事を評価していると、インターネットもテレビの二の舞になってしまいます。

「テレビはつまらないけど、インターネットは面白い。」ネットジャンキーの皆様におかれましては、この事実が意味するところを改めて考えていただきたいと、面白ドリブンで活動している僕は強く願わずにはいられません。
そして、マスメディアのエンターテイメントが面白くないと感じたら、ソーシャルメディアのエンターテイメントをつくりましょう。

それと、省エネを考えるならばエアコンの温度を上げるよりもテレビを消した方が効果的です。

被災地と復興支援活動とぼくらをソーシャルグラフで結ぶプロジェクト「リボーーーン」をはじめます。

一年も半分が過ぎようとしている五月末、僕は遅めのゴールデンウィークをとりワイフの実家に向かっている車中でこの記事を書いています。みなさまはいかがお過ごしでしょうか。

さて、東日本大震災から早三ヶ月目にさしかかろうとしています。この間、実に様々な情報が錯綜し、普段ウェブになれ親しんでいる層にとっても、被災地や復興支援活動の現状がみえにくくなっております。今被災地に必要なものはなんなのか、寄付したお金はどのくらいの時間をかけて被災された方の手に届くのか、そもそも自分に出来ることはなんなのか。
歯がゆさと共に色々なアプローチを検討した結果、一つの結論に達しました。

みんな同じ事考えてるんじゃないかと。

実際に被災地に訪れて瓦礫撤去などのボランティア活動に従事している人や、多額の寄付をした人の話を聞くたびに「僕は何も出来ていない…」と罪悪感にも似た感覚を覚えます。
その気持ちが正しいかどうかはさておき、これは今ぼくらの目の前に見えている様々な活動だけだと考えるからこんな考えに至るわけです。だけど、自分には選べない選択肢しか無いことは自分のせいではないはずです。

だからこそ言いたい。これは被災地と支援活動とぼくの関係が薄い事に原因があるのだと。決して僕の力が足りていないわけでは無いと。力が足りていないなどと考えたくないという気持ちが多分に含まれておりますが、なにはともあれ、この三者の繋がりを強めることがまず第一だと考えました。

ソーシャルグラフ

昨今はTwitterFacebookといったソーシャルグラフをコンテンツとしたCGMが隆盛を誇っています。これが何を意味するのかはさておき、これこそまさに被災地や支援活動と僕をつなげるインフラなわけです。人との繋がりがイコールソーシャルグラフなわけですから。

とはいえ、ソーシャルグラフだけで完結するとは思えません。なぜならば、今の僕にはまだ被災地も支援活動もドラマだからです。テレビで見るドラマと同じなんです。
ラーメンの写真見てラーメンを食べたくなるのは、ラーメンの写真をトリガとして自分の記憶の中にあるラーメンの香りや味わいを思い出すからです。しかし僕には被災地や支援活動の記憶が無い。いくら呼びかけられても実感を思い起こすことは無いのです。

ソーシャルグラフと現実をつなぐ

このような意識を発端として生まれたのが今回ご紹介したい「リボーーーン」です。
リボーーーンのビジョンは「被災地や支援活動とぼくらをソーシャルグラフでつなげる場の提供」です。未だ実感を得られない被災地や支援活動の現状を、実際に被災された方や、支援活動に従事されている方にお話して頂くことで知る、感じる事を第一義としています。
また、これに付随して、多くの人が一同に介すことで生まれる新たな知見やアイデアの創出を促進することも目的の一つです。
さらに、被災地や支援活動の現状を知ることで「これならば僕にも出来る」という何かを見付けて頂くことも目的の一つとしています。

つまり、現状を知っているようで何も知らないぼくらが、現状を知り、自分がどう貢献出来るのかを模索するのが目的のイベントです。
ただし、これは一過性のものであるとは考えていません。なぜならば復興がそれほど早く終わるとは考えていないからです。今はまだ、最低限のインフラも復旧していない状況であるため見えてこないだけで、これから先もっと多くの問題が見えてくるはずです。
そのような問題に対して、今までと同じ状態に戻すのが最良なのか、それとも新たなアプローチが有用であるか、そういったところまでをみなさんと知恵を出し合って考えていきたいと、そういった思いから「リボーーーン」は生まれました。

自分のためにやる

ここまで読んで頂いた方はお気付きでしょうが、復興支援て”誰かのためにやる”というものではないんですよね。被災地の人が辛そうだとか、頑張ってほしいだとか、そういった気持ちを感じる事があっても、それは相手に向けた言葉や気持ちではないんですよね。復興支援活動に従事したい、ボランティア活動に従事したいという自分自身の気持ちで、その選択肢をとりたいという自分の欲求を原動力としているわけです。変な話、困っている人が山田さんでも、田中さんでも関係ないわけです。
ということは、冒頭で僕が感じた罪悪感は人に向けて感じた気持ちではなく、自分がとれるであろう選択肢をとっていない、やれるはずなのにやっていない、という自分自身への期待に応えられていない事に対する罪悪感であると言えます。これは極めて個人的な価値観であり、”誰かが”支援活動に従事しているからという事実に対して感じる気持ちではないということです。

貢献できる内容は人それぞれです。寄付した義援金の額や被災地で活動した時間で評価されるものでもありません。様々な理由からリボーーーンへの参加が難しいみなさまにおかれましては、リボーーーンの活動に参加できない事に対して罪悪感のような気持ちは持たないでください。もちろん、参加して頂けること、共感して頂ける事は大変ありがたく思います。
しかし、やらないといけない事ではありません。あくまでも、自分の内面に問いかけ、自分がやりたいからやるという自己選択に基づいた一つの行動として取り組んでください。

出口ではなく入口

みなさん一人一人が選べる選択肢の一つとして、今回リボーーーンからイベントという形で場の提供をさせていただきますが、ここが出口ではありません。参加するだけで完結する物語ではありません。ここが入口です。なにが出来るのか、なにをすべきなのかを考えるための材料と場を提供させて頂くのがリボーーーンの役割です。

これを踏まえた上で、第1回として2011年6月15日に日本橋のXEXというお店をお借りしてイベントを開催します。「リボーーーン」の代表者にはyusukebe.comのわださんが、そしてその回りをサポートする多くの人達と共にみなさんが訪れ、様々な意見を出し合う事を心待ちにしています。
参加費を頂くイベントですが、参加費の一部は寄付チケットとしてみなさんにお配りします。当日発表して頂いた被災された方や支援活動、被災地などからみなさん一人一人が寄付する先を選んで寄付して下さい。今の被災地に、今の日本に何が必要なのかを、このイベントを通じて一緒に模索していきましょう。
よろしくお願い致します。

リボ−−−ン「ソーシャルと復興支援を繋げるイベント」
リボ−−−ン : ATND

イベント概要

開催日時2011年6月15日(水) 18:30
開催場所XEX日本橋
東京都中央区日本橋室町2丁目4-3
YUITO/日本橋室町野村ビル4階
参加費¥5,000
参加申込参加申し込みページ

イベントの詳細はイベントページをご覧下さい。

代弁行為の持つ危険性

どうもおひさしぶりでございます。みなさまにおかれましてはその後ご健勝であられましたでしょうか。3月11日にみまわれた東日本大震災の被害に合われましたみなさま、そして関係各所にお見舞申し上げます。

震災から早2ヶ月弱、未だ復旧の目処が立たない地域があれば、風評被害にあわれ、物理的被害は薄くとも壊滅的な打撃をうけた地域もあると聞きます。
いずれにしてもまずは手を動かし、今よりも良い状態へと少しずつでも変えていかなければなりません。

そのような状況において、いささか不安にかられる事象を目にしたため記事にしました。今回は代弁行為の持つ危険性についてお話したいと思います。

みなさん、代弁行為って知っていますか?
「この人がこれを求めているだろうから」が代弁行為です。


前説

最近僕の友達がFacebookのノートに"被災地に行きたいので車を貸してください"という内容をまとめて公開しました。

表層的にしかわからない被災地の事を知りたく、現地に赴かなければ知ることができないと判断しての事だと思われます。その意気は良いとしても、現地の状況や被災された方々の気持ちを考慮できているかといえば、そうではないでしょう。とはいえ、根底にあるのは「なにか自分に出来ることはないだろうか」という義侠心です。

個人のパーソナリティが絡む事なので、この行為の是非はこの記事では触れません。


行為への反応

件のノートへの反応は大きく分けて三つ。

  • 現地に赴いた経験と照らし合わせた助言
  • アプローチへの提案
  • 行動への批判

三つのうち、前者二つはどちらも行為を肯定した上で、より良くなるブラッシュアップを目的とした建設的意見です。

しかし、最後のひとつは「何か自分に出来る事はないだろうか」という気持ちの否定です。発言した本人は意識していないかも知れませんが、被災された地を、被災された方々がその背景に居、その状況に義侠的感情を持った気持ちそのものを否定しているわけです。

確かに、行動としては稚拙かもしれません、もっと良い選択肢があったのかもしれません。しかし、いずれにしても行動しなければなにも始まらないと僕は思います。


僕の意見

僕は自分の行動が最初から全て正解であるなどとは考えていません。

むしろ間違えている事の方が多いと考えています。義援金、支援物資、ボランティア活動、いずれにしてもマスメディアやインターネットで知ることができる以上の情報は知りません。おそらくほとんどの人がそうだと思います。

だからこそ、他者の行動を否定してはならないと思います。だってそうじゃないですか?"今よりも良い状態"はそれを定義する個人の数だけ存在し、その中には相反する結果を良しとする考え方も存在するわけです。
今、このような状況において唯一避けるべきは停滞です。何もせず傍観する事ではなにも変わりません。悪くならない変わりに良くもなりません。しかし、僕らの世界は有限です。なんの行動も起こさないのであれば待つのは死です。
何もせずに100%の確率で死という結果を待つより、良くなる50%の確率にかけて行動すべきだと僕は思います。その行動が引き起こした結果を見て反省すべき点はあるでしょうが、それの繰り返しがいわゆる"歩み"なのではないでしょうか。

もし仮に、他者の行動の否定が「そんな生半可な気持ちではだめだ」という思いからであったとしても、上述の通り否定からはなにも生まれません。そんな生半可な気持ちではだめならば、良しとする気持ちがどのようなものであるかを明示すべきです。


責任転嫁と自己正当化

件のノートでは、「車を貸してほしい」が主題でしたが、前述のとおり行動の中身は現実に即したものでは無かったため、多くのコメントが車を貸すという主題から外れた発言者なりの行動に対する意見でした。

意見を言うことは間違いではありません。より良い結果を求め、様々な意見をぶつけあう事は素晴らしい事です。震災という状況的には意見交換よりもまず行動を起こすべきとの意見もあり、いずれにしても各々が自己意識によってより良い未来を築くために必要な意見であると思い、発言しています。

これに対して僕が気になったのは意見を述べた人が「ノートを書いた本人(僕の友達)が意見を求めていると思ったから」と言った点です。
仮にその論理が事実に即したものであったとしても、これは大変危険な考え方です。
なぜならば、自分が責任を持たなければならないはずの自分の意見の責任を、求めた相手に転嫁しているからです。つまり、「求められたから言っただけ」という責任の放棄であり、これこそが自分の行動を正当化するための"代弁行為"です。


波及効果を考慮する

また、このような事を頭で理解していたとしても、意見という要求を満たした充足感によって"良いことをした"というような錯覚に陥ってしまいがちであることも代弁行為の危険性に挙げられます。これにより、自分の意見が持つ波及効果の想定を怠る可能性が生じます。
件のノートに当てはめて考えるならば、「意見求められたからそんなのダメだって否定しただけだよ」という短絡的思考です。否定することの波及効果を想定してはいません。

現に、ノートに寄せられた意見を目の当りにした僕の頭に浮かんだのは「行動を起こすって間違いだったの?」という疑問です。本来ならば起こした行動の結果を評価して次回に活かすべきはずが、そもそも行動を起こすことに疑問を持ってしまいました。
次に浮かんだのは「否定されるおそれがあるならば、誰かが否定されない行動を起こした段階でそれに追従しよう」という考えです。これならば少なくともすでに良い評価を得た行動として自分が否定される危険性は排除出来ます。

しかし、もっと保守的に考えるとそもそも支援活動しない事が、つまり行動しない事が最も直接的な防衛策であることがわかります。傍観しているだけならば、少なくとも否定されることはありません。

これを全ての人が考えたらどうでしょう。誰も行動を起こさないという状況になってしまいますよね。極端かも知れませんが、行動そのものに対する否定の波及効果はこのようなベクトルに働いていることは確かです。なぜ否定されるのかが論じられなければ、行為の妥当性を図る手段を得られません。

こんなネガティブな結果を引き起こした意見であったとしても、発言した本人は「求められたので答えを返した」という要求を満たした充足感が得られてしまう。これが代弁効果の持つ危険性です。


その先にあるもの見据える

今は、1人でも多くの人の手で、どんな手段でも良いから1日でも早く復興することが第一です。この記事を読んで「もしかしたら」と自分に当てはめられたならば、「人の意見で自分の行為を正当化していないか」また「代案、対論のない否定をしていないか」を今一度見つめ直してください。
意見の先、議論の先には住む場所はおろか、仕事も家族も何もかもを失い、それでもなお立ち上がろうと歯を食いしばっている方々が居ます。今の僕らに必要な議論か、必要な否定なのかをしっかりと考え、行動して下さい。

僕としましては、動機はなんでも良いと思います。暇だから、面白そうだから、人に感謝されたいから、目立ちたいから、お金になりそうだから。どんな動機であったとしても復興が目的であることに変わりはありません。どうしても認められない動機だったとしても、せめて否定するのではなく無視して下さい。そして否定に注ぐエネルギーを別の復興支援策に注いでください。
よろしくおねがいします。

Google と Facebook の限界

電車でかわいい女の子が隣にいるときの僕のインターフェースは最先端なのですが、最近ウェブではコンテンツの質について取りざたされていますね。
CGM に限らずウェブに公開されているコンテンツは基本的にマンパワーによって生成されています。つまり、コンテンツの増加量はインターネット利用者数の増加に対して指数関数的であると言えます。これがいったい何を示すのか、今日はそこんとこについて考えてみたいと思います。

SEO の功罪

Google 検索を代表とする既存のフィルタは、リンクジュースという機械的な相関の重み付けを基準としています。「何が重要であるか」を評価するのではなく、前提として重要である要素を決めています。これは「気温が上がった原因が二酸化炭素にあるかどうかを評価せず、二酸化炭素が増える事で気温が上がると仮定した」という論理と同意です。
つまり、利用者ではなく提供者がその価値をコントロール出来るわけですね。ここにもメールと同じく”仕組み的な脆弱性”が存在しています。
この脆弱性を利用したものがいわゆる SEO というやつです。

情報の価値は、本質的に言えば受け手が決めるものです。提供者が価値を決められるわけではありません。提供者はあくまでも受け手を選別しているに過ぎないのです。ここに pv というエッセンスが加わることで SEO のモチベーションとなっています。

多くの人の目に止まることは確かに大事です。しかしそれは目と対象のバランスが維持されている前提によって保証されます。言い換えれば「人間が一度に評価出来る母集団の数には限度がある」という事です。
立地の希少価値とも言えるこの前提が SEO によって曖昧になってしまっている現状は、検索エンジンの持つ説得力に対しても言える事です。

Google の限界

提供者のほぼ全てが SEO を意識する今のウェブでは”多くの人の目に止まる”事は優位性を保つアプローチではなく、最低限の施策として考えられている事からも判るとおり、既存の検索エンジンから見たコンテンツの数は既に飽和状態にあります。
今はまだ既存の検索エンジンを意識したコンテンツ、技術的にウェブに取り入れる事が可能なコンテンツに限られているため既存の検索エンジンで情報収集する事が可能ですが、10年、20年先スマートフォンが進化してウェアラブルコンピュータが今のパソコンの位置に置き換わったとしたら、今の検索エンジンは何の役にも立たないでしょう。

なぜならば、生活を軸とした価値の決定プロセスの因子となる要素はリンクジュースのような普遍的なものではなく、文化や地域性、年代、性別など、無数に存在するパーソナリティに起因しているためです。つまり、利用者のパーソナリティという検索エンジンから見て事前に決定出来ない基準によって情報の価値が決定しています。
既存の検索エンジンにはこういった要素を評価する価値決定プロセスが備わっていません。ここが Google の限界です。

Facebook の限界

Facebook は”エッジランク”という人間関係を軸とした価値決定プロセスによってコンテンツの重み付けを基準としています。
利用者の行動から推論するレコメンドエンジンの評価基準として定義されているこのエッジランクが、既存の検索エンジンと未来の検索エンジンの丁度中間に位置する検索エンジンであると僕は考えています。

ただし、あくまでも行動を基準としているため、価値が普遍的であるという点で既存の検索エンジンと本質的に同じです。価値のコントローラが提供者から利用者に移動したに過ぎません。
さらに、人間の選択から価値を類推するレコメンドエンジンの限界は価値の水平思考が出来ない点にあります。個人間で交換する価値自体が個人にある価値に依存しているため、行動を基準としたクラスタリングの外と価値を交換することはありません。
ここが Facebook の提供するエッジランクの限界です。

世界の限界

ウェブにおける情報の大多数は文字です。つまり、同じ言語を理解するクラスタに属してさえいれば価値の交換が可能です。ある程度は。
しかし、仮に世界中の言語が英語に統一され、全ての人間が等しく言語によって価値を交換できたとしても、文章を構成する単語や言い回しの重み付けには文化や地域性といった要素が絡みます。つまり、言語が統一されたとしても意識が統一されなければフラットな価値の交換は不可能です。
これが端的に言えば世界の限界であり、世界の仕組みでもあります。

小説や漫画の世界でテーマが統一出来ているのは言語が統一されているからではありません。文化や地域性といった地理的な価値観の違いが無いためです。
では、この価値観の違いへ機械的なアプローチはとれないのでしょうか。
音相理論という言語学上の理論があります。端的に言えば「あ」や「そ」といったそれぞれの音が持つ印象によって単語の特徴を評価する理論です。
日本という大きな地理的要素によって限定されていますが、方言や言い回しといった地域的特性に依存していないため文章をそのまま解析するよりも一段低いレイヤーで評価する事が可能です。

この音相理論のように、音に対して人間が抱く印象という、文章とは全く別のアプローチによって展開される理論は情報に対する感情的な価値を共有する事が可能ですが、包括的な価値の共有は出来ません。なぜならば、包括的な価値の共有には文化や地域性が含まれるからです。
つまり、情報世界がどれだけ発達しようとも、文化や地域といった物理的要因なくして情報の価値を計ることは不可能であると言えます。
自分が属するクラスタでのみ通用する言い回しや趣味の世界にだけ通用する価値観がある以上、この世界の限界は超える必要性のあるものだとは、僕は思いません。

未来の検索エンジン

さて、Google のアプローチも、Facebook のアプローチも本質的には普遍的な価値を共有し、フィルタリングしていると書きましたが、フィルタリングが検索の本質なのでしょうか。情報はこれからも濁流のごとく押し寄せてきます。デマンドメディアのように Google の持つ仕組み的な脆弱性を利用したマーケティングは既存の検索エンジン世界の崩壊を早める要因となると僕は考えています。
このように、今後も情報の増加が確実である世界においてフィルタリングというアプローチで立ち向かえるのだろうかという点に対して、僕は疑問を覚えます。
フィルタリングは情報の母集団の中から条件に合致した情報を見つける手法であるため、マーケティングの視点から見ればフィルタされない事が第一歩となります。どれだけフィルタの性能が向上したとしても、情報提供者が抱く「フィルタされたくない」という意図がノイズとして含まれているわけです。

そう考えると、フィルタリングではなくもっと別のアプローチが必要なんじゃないかと僕は思います。
この点に関して、どこかの企業や個人が独善的にルールを設けるのではなく、みんなで考える事が実は一番重要なんじゃないかと考え今回の記事を書きました。
この記事を読んで頂いた皆さんには是非とも考えて頂きたい、未来の検索エンジンって、なんですか?

Facebook をさわり続けて感じた事

みなさん、Facebook してますか?僕はもう肩までずっぽりはまっています。
ゆーすけべー日記のわださんや IT戦記amachangid:HolyGrailとid:HoryGrailの区別がつかない日記のほりたんを中心として Facebook が加速してから早4ヶ月が過ぎようとしています。
今日はこれまでに僕が感じたこと、そしてこれからの予想を立ててみたいと思います。

Twitter との比較

ウェブサービスとしての性質が違うため一様に比較する事は難しいですが、ある側面にフォーカスして考えてみたいと思います。
まず、Twitter は僕の中でウェブとメールの弱点を併せ持ってしまった悪例となりつつあります。シンプルなデータモデルとインターフェースは爆発的な普及を促しましたが、その普及の波に隠されている意図は善意だけではありません。

ハッシュタグは共有資源であるため「先に利用しはじめたクラスタが優先される」というローカルルールの共有によって成り立っています。ハッシュタグを占有するインターフェースは用意されていません。
利用者の多いハッシュタグを付けてツイートするだけで露出が得られるためスパム的な利用が可能である他、愉快犯的にハッシュタグを”荒らす”事も可能です。ユーザーを無視するなどの対処療法は存在していますが、根本的な解決方法はありません。これはメールが持つ仕組み的な脆弱性と合致しており、悪意の十分な考慮が為されていない事が原因の一つとして考えられます。

インフラとして唯一の価値である普及度の点から言えば、明らかにキャズムを超えた Twitter は成功したサービスであると言えるかもしれませんが、上記の理由からこれ以上の本質的な発展は望めないのではないかと僕は考えています。メールにおけるメールマガジンメーリングリストなど、運用でのフォローにとどまると考えています。つまりは、ソーシャルフィルタリングという運用によってソーシャルメディアとしての価値を高める事と、スパムのようなノイズによって価値が貶められる事のバランスを維持するような安定しか望みにくい状況になったと考えています。

これに対して Facebook はあくまでもウェブサービスとして、様々な形のリソースを表示するインターフェースをコンテンツとして提供しています。例えばエッジランクという、人間同士の関係性に由来する評価システムにより自動的なフィルタリングが為されているなど、ノイズの流入に対して機械的なアプローチが取られています。
また、Twitter の取っている単一のリソースをクライアントやサードパーティウェブサービスによって姿を変える拡散的手法に比べて、様々な形を持つ複数のリソースをニュースフィードという形で集約する手法を取っている事も注目すべき点です。
mixi のように「他のユーザーの日記にコメントを残すにはその人の日記ページにアクセスしなければならない」という必然性の薄い行為は必要ありません。つまり、インターネットの世界に受動的な情報収集コンテンツを持ち込んだウェブサービスと言えるわけです。

これによりユーザーはテレビに対するそれと近い依存性を示すこととなり、必然的に Facebook に滞在する時間は長くなります。
滞在時間が長くなれば情報アンテナとしての依存度も上がり、インターネットへのインターフェースという Google の立ち位置すらも狙えるようになります。つまり、ソーシャルフィルタリングの本質は集約にあると言えます。

実名主義

Facebook は一貫して「実名で登録しなければならない」というルールを設けています。しかし、勝間さんとひろゆきが論じた実名主義×匿名主義の論調は僕から見て Facebook のそれとは少し違います。ウェブで散見される Facebook実名主義に対する反論も同じように観点が違うと僕は考えています。
Facebook が求める実名主義とは、文化的にフラットな関係性を考慮しての事です。文化や社会に依存する事で人間のパーソナリティが構築され、文化や社会に対してどのように認められたか、どのように認められたいのかという称号的位置づけとして存在するのが通り名やあだなであり、逆にそのような意図が排除されたものが実名です。
エッジランクという評価軸からも判るとおり、Facebook が実名から求める意図は「Facebook の中で社会を築いて欲しい」というものです。Google で言うところのページランクが、Google の外から持ち込まれた基準で評価されてしまうことは望ましくありません。なぜならば真実が隠蔽されてしまうからです。

以上の事から、ソーシャルという関係性にブラックボックスを持ち込まれたくないという思いから実名主義をルールとして設けているのであって、常識だとか利便性といったユーザー的視点に基づいているわけではないと僕は考えています。
ただ、副次的にスパムが成立しにくいなど、インフラとしての純粋さを保ちやすい効果があることも事実です。

また、実名主義において IT に傾倒している人が持ちやすい盲点の一つに「IT に疎い人は実名でないコミュニティの実在性に疑問を持つ」というものがあります。
いくら建設的な意見があり、有用なコミュニティであったとしても、発信する人間の実在性に重きを置く文化があります。僕もそうですが、IT に傾倒していると”発信源の実在性”よりも”情報としての確実性”に重きを置いてしまいがちですが、これは世間一般で言えばマイノリティです。

これからのウェブ

iPhoneAndroid といったスマートフォンの出現により、ウェアラブルコンピュータの世界が広がりユビキタス社会の入り口も見えようとしています。そのような世界において最も重要なのは個人と社会の間にあるインターフェースであると僕は考えています。Google の出現によりインターネットの入り口が集約されたことからも判るとおり、インターフェースとしての価値は情報の集約によって計られます。
これからのウェブはユビキタス社会で予測された「冷蔵庫にパソコンが搭載される」というような短絡的なものでは無く、スマートフォンのようなウェアラブルコンピュータをインターフェースとして、様々な機器や社会に隠蔽されたコンピュータがクラウドとして存在する、そのような姿がこれからのウェブなのではないかと僕は考えています。