代弁行為の持つ危険性

どうもおひさしぶりでございます。みなさまにおかれましてはその後ご健勝であられましたでしょうか。3月11日にみまわれた東日本大震災の被害に合われましたみなさま、そして関係各所にお見舞申し上げます。

震災から早2ヶ月弱、未だ復旧の目処が立たない地域があれば、風評被害にあわれ、物理的被害は薄くとも壊滅的な打撃をうけた地域もあると聞きます。
いずれにしてもまずは手を動かし、今よりも良い状態へと少しずつでも変えていかなければなりません。

そのような状況において、いささか不安にかられる事象を目にしたため記事にしました。今回は代弁行為の持つ危険性についてお話したいと思います。

みなさん、代弁行為って知っていますか?
「この人がこれを求めているだろうから」が代弁行為です。


前説

最近僕の友達がFacebookのノートに"被災地に行きたいので車を貸してください"という内容をまとめて公開しました。

表層的にしかわからない被災地の事を知りたく、現地に赴かなければ知ることができないと判断しての事だと思われます。その意気は良いとしても、現地の状況や被災された方々の気持ちを考慮できているかといえば、そうではないでしょう。とはいえ、根底にあるのは「なにか自分に出来ることはないだろうか」という義侠心です。

個人のパーソナリティが絡む事なので、この行為の是非はこの記事では触れません。


行為への反応

件のノートへの反応は大きく分けて三つ。

  • 現地に赴いた経験と照らし合わせた助言
  • アプローチへの提案
  • 行動への批判

三つのうち、前者二つはどちらも行為を肯定した上で、より良くなるブラッシュアップを目的とした建設的意見です。

しかし、最後のひとつは「何か自分に出来る事はないだろうか」という気持ちの否定です。発言した本人は意識していないかも知れませんが、被災された地を、被災された方々がその背景に居、その状況に義侠的感情を持った気持ちそのものを否定しているわけです。

確かに、行動としては稚拙かもしれません、もっと良い選択肢があったのかもしれません。しかし、いずれにしても行動しなければなにも始まらないと僕は思います。


僕の意見

僕は自分の行動が最初から全て正解であるなどとは考えていません。

むしろ間違えている事の方が多いと考えています。義援金、支援物資、ボランティア活動、いずれにしてもマスメディアやインターネットで知ることができる以上の情報は知りません。おそらくほとんどの人がそうだと思います。

だからこそ、他者の行動を否定してはならないと思います。だってそうじゃないですか?"今よりも良い状態"はそれを定義する個人の数だけ存在し、その中には相反する結果を良しとする考え方も存在するわけです。
今、このような状況において唯一避けるべきは停滞です。何もせず傍観する事ではなにも変わりません。悪くならない変わりに良くもなりません。しかし、僕らの世界は有限です。なんの行動も起こさないのであれば待つのは死です。
何もせずに100%の確率で死という結果を待つより、良くなる50%の確率にかけて行動すべきだと僕は思います。その行動が引き起こした結果を見て反省すべき点はあるでしょうが、それの繰り返しがいわゆる"歩み"なのではないでしょうか。

もし仮に、他者の行動の否定が「そんな生半可な気持ちではだめだ」という思いからであったとしても、上述の通り否定からはなにも生まれません。そんな生半可な気持ちではだめならば、良しとする気持ちがどのようなものであるかを明示すべきです。


責任転嫁と自己正当化

件のノートでは、「車を貸してほしい」が主題でしたが、前述のとおり行動の中身は現実に即したものでは無かったため、多くのコメントが車を貸すという主題から外れた発言者なりの行動に対する意見でした。

意見を言うことは間違いではありません。より良い結果を求め、様々な意見をぶつけあう事は素晴らしい事です。震災という状況的には意見交換よりもまず行動を起こすべきとの意見もあり、いずれにしても各々が自己意識によってより良い未来を築くために必要な意見であると思い、発言しています。

これに対して僕が気になったのは意見を述べた人が「ノートを書いた本人(僕の友達)が意見を求めていると思ったから」と言った点です。
仮にその論理が事実に即したものであったとしても、これは大変危険な考え方です。
なぜならば、自分が責任を持たなければならないはずの自分の意見の責任を、求めた相手に転嫁しているからです。つまり、「求められたから言っただけ」という責任の放棄であり、これこそが自分の行動を正当化するための"代弁行為"です。


波及効果を考慮する

また、このような事を頭で理解していたとしても、意見という要求を満たした充足感によって"良いことをした"というような錯覚に陥ってしまいがちであることも代弁行為の危険性に挙げられます。これにより、自分の意見が持つ波及効果の想定を怠る可能性が生じます。
件のノートに当てはめて考えるならば、「意見求められたからそんなのダメだって否定しただけだよ」という短絡的思考です。否定することの波及効果を想定してはいません。

現に、ノートに寄せられた意見を目の当りにした僕の頭に浮かんだのは「行動を起こすって間違いだったの?」という疑問です。本来ならば起こした行動の結果を評価して次回に活かすべきはずが、そもそも行動を起こすことに疑問を持ってしまいました。
次に浮かんだのは「否定されるおそれがあるならば、誰かが否定されない行動を起こした段階でそれに追従しよう」という考えです。これならば少なくともすでに良い評価を得た行動として自分が否定される危険性は排除出来ます。

しかし、もっと保守的に考えるとそもそも支援活動しない事が、つまり行動しない事が最も直接的な防衛策であることがわかります。傍観しているだけならば、少なくとも否定されることはありません。

これを全ての人が考えたらどうでしょう。誰も行動を起こさないという状況になってしまいますよね。極端かも知れませんが、行動そのものに対する否定の波及効果はこのようなベクトルに働いていることは確かです。なぜ否定されるのかが論じられなければ、行為の妥当性を図る手段を得られません。

こんなネガティブな結果を引き起こした意見であったとしても、発言した本人は「求められたので答えを返した」という要求を満たした充足感が得られてしまう。これが代弁効果の持つ危険性です。


その先にあるもの見据える

今は、1人でも多くの人の手で、どんな手段でも良いから1日でも早く復興することが第一です。この記事を読んで「もしかしたら」と自分に当てはめられたならば、「人の意見で自分の行為を正当化していないか」また「代案、対論のない否定をしていないか」を今一度見つめ直してください。
意見の先、議論の先には住む場所はおろか、仕事も家族も何もかもを失い、それでもなお立ち上がろうと歯を食いしばっている方々が居ます。今の僕らに必要な議論か、必要な否定なのかをしっかりと考え、行動して下さい。

僕としましては、動機はなんでも良いと思います。暇だから、面白そうだから、人に感謝されたいから、目立ちたいから、お金になりそうだから。どんな動機であったとしても復興が目的であることに変わりはありません。どうしても認められない動機だったとしても、せめて否定するのではなく無視して下さい。そして否定に注ぐエネルギーを別の復興支援策に注いでください。
よろしくおねがいします。