原発事故をとおして僕らが学ぶべきこと

もうすぐ震災から半年が経ちますが、みなさまにおかれましては息災でございましょうか。僕はといえば最近筋トレをはじめ、食生活にも気を使い若いあの頃のメリハリボディを取り戻す事に夢中でございます。とはいえ、このような事をはじめてもすぐに効果が表れるわけではなく、習慣化して意識の外にでてから肉体へのフィードバックが表れるようです。何事もまずははじめてみて、それが正しい行為かどうかは結果で測るものなのだなあと感じている次第でございます。

リボーーーンが取り扱うテーマ

僕はリボーーーンという復興支援活動に参加しています。活動内容についてはリボーーーンウェブサイトをご覧いただくとして、次回イベントで取り上げるテーマについて、今リボーーーン内部でも激論を交わしている議題があります。
それは”原発事故”。日本の復興において最も重要で、最もデリケートなテーマです。
デリケートすぎるが故にテーマとして取り上げる事のリスクについて大きな議論を呼んでいます。といっても提案したのは僕自身であるため、今回の記事では「なぜ、今復興支援のイベントで原発事故に焦点を絞ろうと提案したのか」を紐解いてみます。

問題の本質

原発事故について意見を求めると大体「難しいからわからない」と意見の表明を拒否されます。確かに高度な物理学や医学、国内のエネルギー事情、更には政治における利権的な関係性についてまで、実に幅広い知識を必要とする問題です。
福島では実際に被害を受けている人がたくさんいますし、今でも避難を続けている人もいます。そのような状況に対して「うっかり適当な事を言って間違っていたら大変」だと考えて意見表明に躊躇する気持ちは十分にわかります。わかりますがそれは間違いです。
そもそもこの問題に対して現段階で正解を述べられる人などいないでしょう。だって日本人の誰も経験したことのない状況なのですから。世界的にみても稀な事故です。
実際海外では少ないリスクでユースケースを検証できる良い機会だと考え、国をあげて様々な議論が交わされ、日本国内に世界中の様々な研究機関が調査に訪れています。つまり、世界中の人達がこの問題に対して「わからないことだから調べて意見を出し合わないといけないよね」と考えているのです。
この点を理解せず、正解が言えないからといって口を噤むのは選挙に投票しない事と同意です。これこそが原発事故の本質的な問題だと僕は考えています。

正解への依存性

原発事故の本質的な問題は「正解を言えないから口を噤む」という点にあると書きましたが、これは原発事故だけに限定した問題ではありません。僕を含めた全ての日本人が抱える本質的な問題です。バブル崩壊以降、絶対的に正しいとされてきた事の多くが人を死に追いやるくらいに高いリスクを抱えている事が明確になりました。
例えば不動産、例えば為替、例えば政治。枚挙に暇がありませんが、ここで日本人が学習したのはリスクの存在そのものではなく、リスクをかわす技術です。
つまり、リスクのあるものには手を出さない、手を出して欲しいものにはリスクを感じさせないというアプローチです。これらのアプローチにストレスを感じさせないよう、僕らはニヒルに、また退廃的に物事を捉えることで矛盾から目を逸らしました。

僕らは正解だと感じられる物事に依存し、自己の判断をおろそかにしてきました。それ故学ぶこともせず、また正解が感じられない行為にはしる人間を哂ってきたのです。
これがどのような結末を引き起こすかも考えずに、誰かが出してくる正解というぬるま湯に浸って刹那的な毎日を過ごしてきたのです。

ブラッシュアップと淘汰圧

生物の進化は絶え間ないストレスにさらされなければ起こりえません。前時代の弱者は新時代の覇者に一番近いのです。
恐竜が闊歩する時代、最も弱い立場にいた哺乳類は今や最も発展した生き物だと言えるでしょう。アメリカとの戦争に負けた日本はたった数十年で世界でも有数の先進国になりました。
これらの事から解るのは、現状が与えるストレスを改善するためのブラッシュアップが必要だということです。どうしたら今よりも良くなるのか、という思想の中に与えられた正解を選ぶ余地などありません。シマウマの足が早くなったり、体に縞がでてきたのは「そうすればライオンに食べられなくなる」という正解を選んだからではなく、足が早いシマウマが生き残り、体に縞のあるシマウマが生き残ってきた結果です。これまでにきっと、体の大きなシマウマや、ツノの生えたシマウマも生まれてきたのでしょうが、それらのシマウマは残念ながら生き延びてこれなかっただけなのです。

原発事故をとおして考えてほしいこと

生物の進化を僕らの社会にあてはめると、正解かどうかに頓着する事の無意味さが理解出来ると思います。僕らの社会に、今の日本に一番必要なのは「原発事故にどう立ち向かったら良いのか」ではなく「原発事故をとおして僕ら一人一人が自分の意見を持ち、他者と議論する」ことです。そのプロセスを経て正解が見つかるかどうかは誰にも分かりません。しかし、今の段階でどこにも正解なんて無いんです。
やれ政治が関わるデリケートな問題だとか、被災者が敏感になっているだとか、そんなのは前提条件でしかありません。意見表明しない理由にはなりませんし、そもそも政治や被災者に焦点を絞ってより良い未来を模索するために意見表明するんじゃないでしょうか。

だから僕にとって「原発が是か非か」という点は余り重要ではありません。僕ら一人一人が自分自身で考え、そして責任をもって言える意見をもつことにこそ価値があると感じています。だからこそ次回リボーーーンでは原発をメインテーマに、様々な立場の人達の意見を聞き、質疑応答の時間を設け、自分の意見をもつための準備をしてもらいたいと考えています。
僕自身、今原発に対する意見を求められても答えを返せません。せいぜい「まずはリスクマネジメントを見直すべき」という程度です。具体性なんて一つもありません。
原発をテーマにした会をとおして自分自身の意見を責任持って発言出来る人間になりたいからこそ、原発をテーマにしてはどうかと提案しました。

意見を求めています

先週の日曜、リボーーーンのミーティングで上記のように「原発をメインテーマに据えてみたらどうか」と提案した結果、リボーーーンのメンバーでも賛否両論が起こりました。僕らが今この問題を取り上げるリスクと、日本に蔓延している”誰かが正解を差し伸べていない物事に対するアンタッチャブル感”をきらい、さらには「それは復興支援なのか」というそもそもの疑問から、リボーーーンのメンバーだけで結論を出すべきではないとFacebookのクエスチョン機能を使ってみなさんの意見を伺っています。
今でもクエスチョンは継続していますし、Facebookを利用していない人はこの記事にコメントしていただいても結構ですので、是非みなさんがどう考えておられるのか発言してみてください。
http://www.facebook.com/questions/214905138564371/

また、僕の考えを端的に表しているみんなで決めよう「原発」国民投票という取り組みがあります。
何が正しいかではなく、僕ら一人一人が責任を持って意見表明する事にこそ価値があるから、国民全員が当事者意識を持って原発の是非を投票しよう、という取り組みです。
もちろん、法的拘束力などありませんから、是非が決まったところで確実な変化が起こる保証はありません。しかし、国民投票出来る余地があるのは今の僕らが持っている数少ない希望の一つです。

テーマが原発でも、総理大臣でもなんでもいいんです。国民全員が同じ立場にたって自分の意見を持つ事が大事なんです。原発事故で国内はおろか世界からも批判されている状況はいつまでも続きません。遅かれ早かれ結論を求められます。その時僕ら一人一人がきちんと「僕はこういう風に考えている」と言えなければ僕は日本は本当に終わると考えています。だからこそ、次回のリボーーーンでは原発をメインテーマに取り上げたいと考えています。